紅い花

2004年3月31日 scribbled
1989.07.14FRIとサインされている。
ほぼ、15年前に買った本である。
いきさつは、何だっただろう?
わざわざ注文を出して手に入れたのは、
記憶にあるところなのだが。
この後に「無能の人」はメジャ−となった。

紅い花はNHKでドラマ化されている。
この本との購入、前後は覚えも無いが、かなり音のない感覚は、
紙に忠実であったかも知れない。
現実のような正に夢物語のような、しかし、引き付けられる。

当時、中田に読むように渡したのであったが、いつになく、
今流行のようだが、あいつ得意の「うんちく」のひとつも
なかった。離婚争議の最中ではあったかに思い出す。

この短編集に納められている「長八の宿」は実在し、当時、
車で40分くらいの所に俺は生活していた。
どれもこれも、俺にはとても詩情あふれる作品郡ではある。

感想を巻末には「糸井重里氏」が書いているのだが、次のような出だしではじまる。

「おまえが思っているほど、おまえはたいしたやつでじゃない」この、何もかもをぶちこわしにしてくれるような最後のひと言を、いまは誰も口にしなくなった。幸いだったのか、不幸だったのか、いまはよくわからないのだが、私自身を前に後に、右に左に動かした力は、いつでも「おまえが思っているほど、おまえはたいしたやつじゃない」というコトバのかたちをしていたように思う。私にとっての世界は、この悲しいほど親切で真実なコトバに満ちていて、私はこのコトバを聞きたくないために、耳をふさいで生きていけたらなぁと、いまでも思ったりするくらいだ。ところが、気にすればするほど、耳はよく聞こえるようになり、目は見ひらいてしまい、ひとびとが黙して語らぬようにしているそのコトバを、自分から無理やりにひっぱり出してしまうことになってしまう。いまあらためてつげ義春を読むなどということは、もしかすると、幸福のためにはしてならぬことなのかもしれない。自分を「いっぱしのなにか」だと思っている若者や、仲間うちではダントツの才能を誇っている誰かが、つげ義春一発でバタバタ倒れていくようすが目に見えるようである。倒れてほしいのだ。バタバタと倒れて、そして起きあがってくる姿を、私は見たいのである。ちょうどいい幸福、軽い名誉、弱々しい敬意やほどほどの嫉妬の視線などを、みんな犬にでもくれてやって、「とぼとぼ」とひとりで歩きはじめてくれることを、昔の若者である私は願っているのである。(後文略)

この後の3年後に事件は起き、その3年後に俺は歩き出した。
まさに、俺は倒されたバタ、バタと。
そして、感謝を受け入れられたのだった。

そして、俺は犬を誇りに思い、それ以外に迷わない。
自分がいかに無力であるかを知って歩くからだ。

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