外人な偶像に二人のピアノと衰退する時間の中
    
雑踏にもネットにも、時には雑誌の中にさえ、君を見かけてしまう。
そんな筈はないと思い直してみても、見れば見るほど君である疑惑は強くなり、拭いされないのだ。
それというのは、わずかにどこか不確かで鮮明でなくなっている記憶と、その曖昧である見かけた
影像を結び付けたい心理と重ねてしまうからだろうか。
この未練がましいような、追いかける気持ちはいったい何なのだろう。
「そんな事がある訳がない」 と 「そんな事があって欲しい」の葛藤があり、狂い始めていく神経は、
いつのまにか限定にまで近づいていく。

ふと、想った・・・フセイン?そう、......フセインが大勢居るニュ−ス影像を.....。。
彼女はもう、見分けのつかない外人さんなんだと。

外人と言えば、俺は23年前に香港の雑誌で、俺が写っている写真をみた。
まちがいなく「俺だ」と思った。いいや、俺だ。
そんな事があった・・・とも思い出した。こうして、時が流れても。

時が流れると想えば、ピアノ。ピアノだな。俺はこうして更に年を重ねてもピアノの前に座っていたい。

そう、二人のピアノだ。

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